志願のすすめ

朝、6時30分。履き慣れない安全靴の重みを感じながらストレッチをした。サービスエリアの地図によると、どうやら仙台市に入ったようだ。ここからもう少し先の東松島市(宮城県)が今回の活動先となる。他のメンバー達も朝食を摂ったりバックパックの整理などをしながら、間もなく迫った「現地入り」を意識し始めているようだ。スポーツの試合前のロッカールームのようだな、などと思いながらのんびりとしていられるのは、幸か不幸か、夜行バスでの旅も慣れたものだからだろうか。

5月17〜18日にかけて、神奈川県災害ボランティアネットワークの派遣する0泊2日の「災害ボランティアバス」に参加し、たった1日だけだが現地で活動させて頂くこととなった。「支援活動に貴賎なし」と信じて募金や節電を心がけてはいたのだが、たまたまこうした、いわばスポット参戦での人員募集があったので、ならば現地でも活動を…と思い立ちエントリーしたというわけである。

取り立てて好きな単語というわけでもないのだが、この“活動”という言葉はなぜか私にとって馴染み深いものとなっている。仕事ではないが趣味というほどのものでもなく、もちろん好きでやっているのだが、個人で趣味的に行うにはその範疇を超えているようなもの、とでも言えばいいだろうか。常々手伝わせてもらっている先輩指導者達が手弁当で開催するトレーナー育成セミナーやイベントなどは、業務ではなく“活動”と呼ぶにふさわしいものだし、国際ボランティアとしてアフリカ滞在中も、我々隊員は自らの日々をまさに“活動”と呼んでいた。要するに、非営利であることはもちろんだが、それ以前の問題として「好きだから(面白そうだから)参加する」組織だった行動、というのが私にとっての“活動”なのだろう。  

9時30分。東松島市矢本の運動公園内にある前線指揮所に到着した。他県からの高校生ボランティアチームの姿も見える。部活参加者も多数いるのだろうか、揃いのビブス姿できびきびと動く様子に周囲から感嘆の声があがっていた。我々神奈川県チームも5つの班に分かれてそれぞれの担当区域へ向かった。海岸からほど近い住宅地だが、パッと見、大きな損傷が見られない家屋も少なくないため、若干意外な印象も受けた。だが、それらはいずれも比較的新しい住宅で、その合間には家屋があったであろう空き地や集積された瓦礫の山が点在していた。何がこれらを分けるのだろう…。「ボーダーライン」という単語が頭に浮かんだ。

10時15分。一見大きな損傷などの見受けられないご家庭から、玄関およびカーポートのタイルが乱れ、波打ってしまっているとの声を受けた。班長は周辺区域のニーズ調査に向かわねばならないため、私が現場リーダーとして後を引き継ぎ、残ったメンバー5名で修復作業に取り掛かる。即席グループではあるが、チームワークもよく作業は着実に進み、昼食時にはご家族からお茶を振舞われて逆に一同恐縮してしまった。平時は家屋の半分で美容室を営んでいるが、張り出したテラスの床部分が津波で数十メートル先まで流されてしまい、昨日それを自ら回収、修復したばかりだという。一見大きな被害を受けていないように見えるご家庭も、ほとんどがそうやって自分達の手で地道に復旧・復興作業を行っているからこそなのだ。本当に頭が下がる。

ちなみにこちらの家屋は目の前がゴルフの打ちっぱなし練習場になっているが、場内には瓦礫に加えて小型の船舶が一隻流れ着いていた。ゴルフ練習場に小型船というありえない取り合わせは、「テレビで見たような」などと月並みなことは言いたくないが、報道などで繰り返し見せられたあの非現実性が実体となって存在しているものだった。

14時30分。無事修復作業を終えて指揮所へ帰還し、用具の清掃や片づけを行い、再びボランティアバスへ乗り込んだ。それぞれが今日中に帰宅できるよう、一路神奈川県へ帰路をとったが、行きと同様、ところどころのサービスエリアで休憩をとってくれるので、「強行軍」というほどの印象は実はなかった。

22時。横浜駅前の神奈川県民センターに無事帰着した。ケガ人などが一人も出なかったことや、全員が時間厳守の行動をとれたお陰で予定時刻より早い帰還だそうで、メンバーそれぞれの顔に安堵感や一仕事やり終えた充実感が見て取れた。

ご存知の方も多いと思うが、ボランティアという単語の語源は「志願兵」である。それは私の“活動”と同様、やりたいからやる、参加したいからする、という動機があってこそのものである。そして、「兵」の活動は美しいものばかりではない。泥にまみれることもある。病気やケガの危険だってある。私のように実は集団行動が苦手な人間だっているだろう。それでも、やる。やりたいから。参加したいから。

それでいいじゃないか、それがいいじゃないか、と思うのだ。日々の生活の中で、「自分がやりたいから」という理由だけで許される行動がどれだけあるだろう。自分自身の欲求に忠実になれる時間は、私達の日常の中では恐ろしく少ない。フリーランサーの私ですらそう感じるのだ。社会人は、きゅうくつなのだ。

だからこそ、志願しよう。やりたいと思ったときに。参加してみようと閃いたときに。まだまだかかる復興へ向けて、扉はきっと開いている。